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鈴木庸生(人名検索)

遺稿論文 「木灰」

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鈴木博士と満州の化学工業 U
  (7) 故博士と頁岩油(セールオイル工業) ・ 秋田 穣
   撫順炭鉱には、油頁岩<oil shale>が殆ど無尽蔵といわれる程存在しており、その乾溜によって得られる頁岩油は特別の性質を有しているので、特殊用途の燃料、及び潤滑油の原料として適当であり、今次大東亜戦争に於いても石油資源の一つとして重要な役割を務めている事は良く人の知っている事である。
 撫順の油頁岩が、我国の学者に注意されだしたのは相当古い事で日露戦争後間もない時の事であるが当時は単に地質学的見地より研究されたに過ぎない。
 その頃撫順の古城子坑に勤務していた、小沼得四郎氏が石炭層の上層に多量に存在する「燃える石」に興味を持ってこれを鈴木博士に提示した。博士は、化学的立場から非常に関心を持ち工業的利用の研究を企て、先ず熱処理によって頁岩油を得ようと試み、当時関東都督府中央試験所にいた片山ー氏がこの研究に当たられたのが今日撫順油頁岩鉱業の興る始めであった。時に明治43年の頃の事である。
 片山氏は鈴木博士の指導の下で、先ずその分析試験を行ってこれをスコットランド・ブロックスパーン産の油頁岩との比較を試みた結果、関東都督府中央試験所報告に予報として出ている。
その分析結果を摘録すると

撫順産(光沢ないもの) 撫順産(光沢あるもの) ブロックスパーン産 
総有機物 18.63% 35.62% 33%(水分を含む)
揮発性有機物 15.96% 28.63% 24%(水分を含む)
灰   分   75.92%  60.41% 67%
タール分 2.60% 12%

 以上であって、光沢のあるものとないものとでは相当成分に差があってブロックスパーン産油頁岩は、おおよそ両者の中間に位置しているものと認められる。しかし撫順産油頁岩は、光沢があって揮発性有機物の多いものでも、タール分はブロックスパーン産油頁岩に比較して著しく収得量が少ない。従って揮発性有機物は、熱に依ってガス化し易い成分より成るものと考えられる。
  その後鈴木博士が別に乾留試験を行った時にもタールの収量は2.6%で、偶然片山氏の結果と一致している。こうしてこのタールを分留した結果、おおよそ次の様な成分からなっている。

沸点 留出量 比重
(1) 65〜170℃ 23% 0.773
(2) 170〜230℃  20%  0.830
(3) 230〜270℃  11% 0.859
(4) 270℃以上. 27% 0,882
(5) 残渣  19%  

 その初留液(1)は、揮発油として燃料に適し、高温度に溜出するもの(4)はパラフィン及び機械油の製造原料に用いられ、また蒸留残査はアスファルトの代用とする事が出来、他の大部分(約50%)は灯油として用いられるが、その成分は脂肪族炭化水素を主成分とするが、多量の不飽和化合体を含有しているのでその精製にはようやく多量の薬品を使用しなければならないだろうと推定した。更にアンモニア水は比重はおおよそ1.038で強いアンモニア臭と焦臭を帯びており、3,33%のアンモニアを含んでいるのでアンモニアの製造原料に適するものと結論している。このようにタールの量は少ないがガス及びアンモニアを副生し、タールは燃料その他の用途に用いられる事が明らかになったので、油頁岩利用の曙光を得た訳である。
 中央試験所が、関東都督府から満鉄に移管になった後も満鉄瓦斯作業所長と中央試験所の応用化学科長を兼任していた鈴木博士は、片山氏を督励してその研究を続け、撫順各坑別に油頁岩試料を採って分析し二、三の試料に就いて乾留試験を行った。
 その結果は、満鉄中央試験所に片山ー、小原守両氏の著名の下に摘戴されている。
 大正6年に、片山氏が朝鮮総督府中央試験所に転出したので、その時新たに満鉄に入社して鈴木博士の部下になった筆者<秋田穣氏>が博士指導の下にタールの化学的研究を、又ガス作業所の斉藤勘七氏が乾留試験を担当する事になり、ようやく大規模の試験を行った結果、当時の古城子露天掘りから産出する油頁岩は、比較的合油分が少なく工業的にはおよそ2.5%の頁岩油が得られるのみなので、経済的に工業として成り立たせる為には、乾留法、その他に研究を要するという結論に到達した。
 筆者<秋田穣氏>が満鉄を辞した後を受けて入社した木村忠雄氏が、あらためて撫順全域の試料採取をし、徹底的に秩序ある研究を重ねた結果、地域によっては採油量が抱負で高品位の油頁岩のある事を確認し、工業的企業の可能性のある事を結論した。時に大正13、4年頃の事である。
 一方、大正8年の夏、中央試験所に実習に来た東大工科応用化学科在学中の、海軍委託生の金子吉三郎氏が、撫順の油頁岩の話を聞き、又実地を見学して、卒業論文の題目としたが、卒業後海軍の造兵官になった。その頃、海軍では液体燃料問題で論議が続いていて、海軍燃料廠が創立される様になった時期だったので同氏は燃料重油資源として撫順油頁岩を無視すべきではない事を力説し、海事当局に意見書を提出した。海軍当局は直ちに燃料廠の研究部員だった上原恵道氏(当時機関大尉)と嘱託の明専教授、栗原鑑司博士を実地調査の為満州に派遣し、その結果海軍も、油頁岩工業の成立に積極的に講演する事になった。
 その後幾多の経緯もあり、困難もあったが、それらを克服して今日に至ったのであって、撫順油頁岩工業の確立に対しは、中央試験所の木村氏の研究、撫順炭鉱の長谷川清治氏、大橋頼蔵氏その他の諸氏の一方ならぬ苦心は勿論、海軍の金子氏、並びに当局の絶大なる努力の賜物であって、その功績は真に偉大であるが、その端緒を開いた鈴木博士、小沼氏の構成は決して忘れてはならない。油頁岩工業発展の史上に、特筆すべきものであると思う。
筆者は<秋田穣氏>は、満鉄中央試験所に、鈴木博士の研究の一部に関与し海軍燃料廠に勤務する様になってからは、又撫順の頁岩油を受取る方の立場になり、頁岩油 は当時の海軍重油規格には適合しなかったが、そのまま海軍燃料重油として受け入れる試験法を改正し、その他種々の方法を講じた奇しき因縁があるので、仕事の事ども思い出すままに書き綴って、博士の頁岩油工業確立に対する功績を讃えるよすがとした次第である。 
(8) 鞍山に於ける故博士の業績・三 田 正 揚
 鈴木博士は大正9年4月鞍山製鉄所青銅課長として来任され、大正12年1月、理化学研究所に転ぜられるまで約3年、引き続き数年間嘱託として関係された。鞍山製鉄所在任中は製造課長、臨時研究部兼務として製銑、骸炭<コークス>、副産物の回収等の作業を主宰された。当時酸性鉱石の溶鉱炉操業に依る困難、撫順炭に依る骸炭製造等に対する技術員の指導と技術の向上に苦心された。
 研究部に於いては当時貧鉱の選鉱作業研究に開始に当たりその化学的方面に種々研究を推進することに努力され、且つ実験室で実験の一般的指導に当たられた。就中水素、一酸化炭素、及びメタンの赤鉄鉱に及ぼす還元作用に関する研究は昭和製鉄所で行われつつある所謂還元焙焼法の実際の基礎を成すものである。この報告文は燃料協会誌(大正13年、15年)に3回に亘って発表された。
            大連市瓦斯事業       南満集瓦斯株式会社
 ガス事業が満州呱々<ココ>の声をあげたのは明治43年3月10日であるが、鈴木庸生氏は同年2月初代瓦斯作業所長島竹に二郎氏の後を継ぎ、第二代目所長として就任された。当時は日露戦争直後の草創の時代の事で需要家は僅か500戸に満たず、ましてや市民の多くはガスの軽便で経済的である事を知らず、もっぱら胎動の域を脱していなかったが、同氏は市民のガスに対する啓蒙に努め、その真実を理解させ、大正7年1月まで、満7年間我が社の揺籃時代を育んだ功績は甚大である。明治44年、次席の富次素平氏が、海外出張中は建設に、営業に、且つ又一切の経営に就いて、立案実施等を指揮され、満州のガス事業の礎を築き上げた。ことに年々激増する需要量に対処する為、炉の増設が第二期拡張工事として計画されていたが、予算その他の関係で保留となり、すんでの所でガス供給に一大蹉跌<失敗>を来たそうとした時、氏は次長富次氏と協議の結果、応急設備として鋳鉄レトルト4個から成る直熱式石炭ガス発生炉5門を急設し、レトルトは撫順炭鉱で製造され、耐火レンガは貯蔵品のあり合せを充て大正元年11月に着手、同年12月には早くも竣工され、その危急を救った事は特筆すべきである。
 こうして今日の朝日広場以東寺児溝方面は当時軍用地にして中国人の油房業者多数あったが、作業に蒸気機関を使用する時はボイラーを必要としたが軍用地の為許可されず又上海在庫英国製のガスエンジンを大量に購入し油房業界に大いに貢献された。
 又当社業務には直接関係ないが、撫順でコークス炉を築造し、コークス製造試験、大連の寺児溝に大豆油から脂肪酸、グリセリン、硬化油を造る試験工場建設、大連製造所に撫順炭、油母頁岩<ユボケツガン=oil shaleに同じ>の低温乾留試験、これ等の試験の計画指導をされ、いずれも初期の目的を達成、後年工業化された素因を作られたものである。
 元弊社常務志村徳造氏に氏の思い出話を伺った所、志村氏は「鈴木所長はどんな難問も即時に片付けられる実に博聞強記<博識で記憶力が良い事>の人であった」と冒頭に次のように語られた。
 自分<志村氏>が倉庫主任当時、真鋳製のガスランプ及び同付属品が錆びて使用に堪えないで困惑し、どうやって再製したらよいか相談したとこ鈴木所長はこれを化学的処理で赤銅鍍金を研究を研究され、非常に好成績を収めた。
 又ある時は仕上げ溶液がなくなり、係員不在でで調整に困惑した事があったが、その時も氏は即座にあの難しい化学の方程式を無造作に傍らのメモに書かれ計算して所要材料を算出された。勿論化学者とすれば当然ともいえるかも知れないが、何等ノートを調べるでもなく直ちに算出されたのには全く驚いた。
 又、令息が大連病院で危篤状態に陥られた時、鈴木さんは酸素を中央試験所に作らせ、酸素吸入をされた。当時病院では酸素吸入の設備がなかった様だ。それでそこに居た人々は皆驚かされた。
 以上は鈴木所長の博聞強記を物語るものであるが、要するに同氏は一局面の人ではなく化学界方面に天稟<テンピン=天から受ける意>の才能を、後天的には研究をされ縦横に腕を揮われ、ガス事業家としては長年に亘り専門的とされた訳ではないから、その本職とされた理化学畑に比してその事蹟が顕著でないが、若し他の方面に専念されていたらその方面の一大巨人としての偉大さを発揮されたことだと思う。